シャイン・オン!キッズについて

タイラーについて – シャイン・オン!キッズの原点

タイラーは、生後1ヵ月にも満たない時に急性リンパ性白血病と診断されました。当初から見通しはかなり厳しかったものの、幸運にも23ヵ月もの時を共にすることができました。タイラーは天からの贈り物であると同時にひらめきの源でもありました。

生後5ヵ月で骨髄移植を経験し、その後の二回にわたる敗血症との闘いでは、それぞれ1ヵ月間集中治療室に入りました。また、病状が逆戻りしたことも二度あり、集中再寛解導入療法がそのつど行われました。そしてついには真菌感染が肺から脳へと広り、それがタイラーの最後の闘いとなりました。こんなに数々の闘いに挑んでいたにもかかわらず、彼が微笑みを絶やすことはありませんでした。タイラーは驚くほどハッピーな赤ちゃんだったのです。

幸運にもタイラーに会えた人たちの心に今も残っているのは、タイラーの笑顔です。そしてその笑顔こそが、私たちにタイラー基金を設立させ、現在のシャイン・オン!キッズに至らせた原動力なのです。

タイラー、輝き続けて!タイラー、シャイン・オン!

2005年6月25日

タイラーに贈る言葉

タイラーに寄せて

母キムより・・・

タイラーは天からの贈り物でした。

彼は明るい光であり、笑いの源でした。

彼は私たちに、今この時を懸命に生きる純粋な子どもだけが持つ、知恵と喜びを教えてくれました。

タイラーは確かに苦しみました。彼がたった2年の間に経験した身体的苦痛は、世の中のほとんどの人の一生分に相当します。

でも、もしタイラーの存在をその苦しみのみで語ってしまえば、彼との思い出を分かち合うために皆さんをここへ呼び寄せることは難しいでしょう。

事実タイラーは、「がんと闘いながら2年間も入院生活を送る赤ちゃん」という言葉から連想される姿とは全く正反対のものを体現してくれました。

彼は惨めではなかったし、他の多くの子どもたちのように、駄々をこねたり、ぐずったりすることもありませんでした。彼は弱々しくも哀れでもなかったのです。最後の一週間(この時ばかりは私たち家族の誰もが涙なくしては居られなかったのですが)以外は、誰も彼を見て同情の涙を流すことはありませんでした。

そう

タイラーは純粋な慈しみと純粋な輝きにあふれていました。

そして彼のその笑顔は多くの人の心を打ったことでしょう。

もし私がタイラーから学んだことを皆さんと分かち合わなければ、彼はきっと私のことを怒るでしょう。それら全ては、タイラーに「しっかり前を向いて」と促されたり、何が大切かを思い出させてもらったりするまでもなく、40歳の一人前の女性ならばわかっていなくてはならないことでした。とにかく、赤ん坊のタイちゃんは赤ちゃんでありながらタイラー先生になりました。これから申し上げることはタイラーのおかげで私が学び、迷い、そしてまた分かったことのほんの一部です。

レッスンNo.1:子どもの為にすることはすべて何物にもかえがたい価値がある。

もしこれまでの2年間――心配や、来る日も来る日も病院に通うことから来る疲労、行き詰ったときに世界中の医師にメールを送り治療の可能性を模索すること、夜通し白血病や骨髄移植に関する書物を読むこと、私たちの生活を根底から覆してしまうようなこんな2年間――を消し去ってしまうことができたとしたら…私はそうするでしょうか? いえ、そうはしません。ある日の昼下がり、ニコニコ顔の愛するタイラーを連れて砧公園を散歩しました。ブランコに乗ったり、鳥を指差したり、大きな噴水で水が飛び散るのを眺めたり…ああ、なんて素敵な時間だったことか。二年間タイラーのために頑張ったことは全て報われているのです。

レッスンNo.2: Carpe Diem(今を楽しみなさい)

命題No.1: 今いる場所でできるだけハッピーでいること

タイラーは生後1ヶ月にも満たない時に救急車で国立成育医療センター(現、独立行政法人 国立成育医療研究センター)へ搬送されました。そのとき医師は、もし運良くあと3日もてば(それすらも疑わしかったのですが)その先9ヶ月から1年入院することになるでしょう、と言いました。結局入院は2年ほどになりました。タイラーが入院していたのは、明るく楽しげな雰囲気の病院でした。でも例えそうだとしても、どうしたら小さな子どもが、家族のいる住み慣れた心地良い我が家ではない場所でハッピーでいられるでしょう。看護師や医師、ビービーと音を立てる機械や点滴、1日に2回も飲まなくてはいけないオレンジ色のまずい薬に常に囲まれているような場所で。

タイラーを見て!彼はいつだってそのときを楽しんでいたのです!

医師や看護師に手を振りながら病棟を走り回ったり、昼食や夕食の時間には病棟のドア脇で食事の到着を待ち、近づくワゴンを指差しながら大喜びして飛び跳ねたり、8階の窓から外を見下ろし通りかかる車やバスを指差して”ブーブー”と大声を出したり…。何でもないこと全てがタイラーにとっては喜びでした。

命題No.2: 将来に向けての準備はする、でも、今を生きる

風邪薬の箱を手にして副作用の記載を目にしたら、”ふーん、でもその副作用が出るのって1000人に1人の確率でしょ、私は大丈夫”と思いませんか? でもタイラーは、常にこの1000人のうちの1人だったのです。

何一つスムーズに進みませんでした。タイラーは14ヶ月のうちに3回も感染症に罹り、人工呼吸器をつけてICUに入らなくてはなりませんでした。その度に看護師が「またちょっと山がありますね」「またタイちゃん頑張らなくちゃ」と言っていました。「サウンドオブミュージック」はタイラーに聞かせてあげるのに私の一番のお気に入りCDだったのですが、ある時医師がこんな冗談を言いました。「その歌詞の一部に”全ての山を登る”ってあるけど、いつも聴いてるタイラーはそれを言葉どおりに受け止めすぎてるよね。タイラーの生き方は歌詞そのまんまだ。」

タイラーがこの2年間に直面した医学的な挑戦を知的に理解することは、どの時点においても非常に大変なことでした。私が5歩先を見て「よし、この目の前の問題は片付けられる、でも次はどうする?」と考えることは自然なことだったと思います。でも、それは大して役に立たないことでした。なぜなら、良くなるにせよ悪くなるにせよ、タイラーの状態は予測できない驚きに満ちたものだったからです。唯一の解決法はタイラーのそばにいることでした。彼の無邪気な頭の中には”未来”という言葉はほとんど存在しませんでした。彼はまさにその瞬間を生きていたので、これから先のことに対する私の悲観的考えや恐怖などはほとんど洗い流されました。タイラーは、今この時を喜び一歩ずつゆっくりと進むことしかさせてくれなかったのです。

命題No.3: 昨日のことは昨日のこと

病院で朝一番にタイラーに会う人は皆同じような印象を持つでしょう。タイラーはベッドの横に這い登って立ち上がり、歓声をあげながら飛び跳ね、会いに来てくれた嬉しさをはちきれんばかりに表しているはずです。夜彼を一人病院に残して帰宅しふわふわの羽布団にくるまれて眠った私に、彼は怒ったことがあったでしょうか? 7時の朝食の時間に一緒にいて食べさせてあげなかったことを恨んだ事があったでしょうか? 朝私が自宅のベッドでお姉ちゃんのナタリーを抱き寄せていたことにやきもちを焼いたことがあったでしょうか?

そんなことは決してありませんでした。タイラーにとっては毎朝が、優しい微笑みやぎゅうっと抱きしめてくれることを享受できる、白紙のような一日の始まりだったのです。

レッスンNo.3: 感謝しましょう、そしてもっと感謝しましょう。

タイラーの発症から最初の1年間、私は彼の病気を治すことに専念していました。もし、彼の病気が治り人並みの人生を送ることができるなら、私は全世界に死ぬまで感謝するでしょう。

そして昨年(2004年)9月、骨髄移植後に再び状態が悪化した時、タイラーの治癒の可能性は30%から10%以下に落ちてしまいました。私は裏切られた気持ちでした。”つらい闘病生活を1年も送ってきたのに、それが水の泡になったっていうの?”と。

でも、そのとき私は学んだのです。感謝をすることの本当の意味を。

心の底から純粋かつ無条件に愛する人がいて、その人がおそらく死んでしまうと知ったら、誰もがその場から逃げ出してしまいたくなるでしょう。その人を失うことが自分をどれほど傷つけるかを考えると、そこから距離を置き自分自身を守りたいと思うことでしょう。でも、私がタイラーに背を向けることができたでしょうか? 2004年9月から2005年4月までの9ヶ月間、数週間の集中化学療法の期間を除き、タイラーは元気でした。1週間のうち5日間は自宅で過ごすことができましたし、公園に行ったり、駒場東大前駅を通過する電車を見たり、姉と遊んだり、うどんを手掴かみで食べたりすることができました。

去年の9月、タイラー担当チームの小児科医の一人、塩田先生が私の手をとり、目を見つめながら言いました、タイラーはまず間違いなく助からないと。でも、彼女はこうも言いました、これからの数ヶ月はタイラーと私にとって非常に特別な時間になるだろうと。そしてまさにそのとおりでした。それは本当に大切な、完璧な贈り物でした。

 

2005年6月25日

タイラーに寄せて

父マークより・・・

ヘイ!タイラー。そろそろ君に、ちゃんとしたボールの投げ方を教えてあげなくちゃいけない頃だね。お姉ちゃんを追いかけて家中を走り回れるように、足も鍛えなくちゃね。ママとパパは君を電車や飛行機に乗っけて世界中に連れてってあげたいよ、めまぐるしく変わる世の中を見せたいんだ。

タイラー、パパはね、君を幼稚園に連れてって友達(もちろん喧嘩相手もね)を作るのを見るのを楽しみにしてたんだ。プレゼントを買ってあげたり、知らない場所に遊びに連れてって君が世界を自分のものにしていくのを見たりするのも楽しみにしていたよ。ラグビーの試合に連れてく日が来るのも待ってたんだ(サッカーの方が好きならそれでもいいさ)。アフリカに行って野生動物を見せてあげたかったし、世界中に散らばっている素晴らしい親戚の一人ひとりに君を紹介したかった。もっと一緒にいろんな音楽を聞いて、パパとタイラーの好みが合う曲をみつけたかったなぁ。ナタリーが君と一緒に遊ぶところも見たかったし、時にはいたずらなんかもして欲しかった。もっといろいろなことを教えてあげたかったし、君からもたくさんの刺激をもらいたかった。君が自分のテリトリーを意識するにつれて兄弟げんかも避けられなかったろうね、その仲裁もしてみたかったよ。君が学校を卒業して専門分野で成功を重ねていく姿を見ることができたら、どんなに自慢に思っただろう。一緒にビールを飲みたかったし、世界のあちこちでゴルフもしたかった。それから、一番厄介な話題について延々と話してみたかった― そう、女の子のことなんかもね。でも何よりも、タイラー、僕は君の自慢の父親でいたかった。こんなにも君に話したくて、教えたいことがたくさんあるんだ。

だけど実際はね、タイラー、いろいろなことを僕に教えてくれたのはむしろ君のほうだった。この2年間に君の受けた衝撃を思うと謙虚な気持ちになれる。まず友人の大切さをパパに教えてくれたね。友達はみんなそれぞれの方法で気持ちを伝えてくれたよ。お見舞いに来て君を寝かしつけてくれる人もいた。いつも必死に状況を理解しようとしてるパパやママの話に耳を傾けてくれる人もいた。白血球の数値、プレドニゾン、好中球、リンパ球、プラズマ、血小板、タクロリムス、微少残存病変、乾溜、凝固、再発、骨髄移植、臍帯血、寛解、カテーテル、とかなんとかね、パパ達はたくさんのことを知ってなきゃいけなかったんだ。

それから君は、離れて暮らす家族がそれぞれの違った形で支えてくれていることにも気づかせてくれたね。おばあちゃんは「彼の代わりに私を天国に連れて行って」と神様にお願いしてくれたし、徹夜で病院に付き添ってくれたドンおじいちゃんは、その持ち前の明るさでいつも看護師さんたちを笑わせてたよね。

君が教えてくれたことは他にもまだある。そのひとつは、今までに見たこともない次元の忍耐力と信念だ。どんなにたくさん投薬されても、脱水症状がある時や食べられない時だって、そして無菌室に入れられてる時でさえも、君はあるがままのことに感謝していたね。そしてそれは君の輝く微笑みに形を変えて、今もパパ達の胸に刻まれてるんだ。

それから君は、日本という国に対する新しい見方も教えてくれたね。目の前の問題に取り組んでくれた先生達や看護師さん達の努力と親身な看護は、感動的という言葉では表しきれないものだった。これ以上のケアを望めるところが他にあるとは思えないよ。

お姉ちゃんのナタリーに感謝することも教えてくれたね、そして君のママにも!!そう、パパは1993年に初めてママに会った時、彼女に手紙を書いたんだ。「あなたはとても個性的な才能があり、魅力的でセクシーでとっても素敵だ。一緒にいるととても楽しいんだ」ってね。当時は、この2年間のように彼女が目の前の試練に立派に対処できるなんて考えてもみなかったよ。ママの態度はずっとポジティブだった。そして私とナタリーのための時間を作り、家族の絆を深めてくれたんだよ。

パパは今、自問していることに気がついたよ。そんな大切な教訓なんてひとつも知らなくていいから、君には家で騒々しくあばれていて欲しかった、と思っているのかってね。多分そう願うだろう。でも、それじゃ君がパパたちに教えてくれたもうひとつの大事な教訓を顧みないことになってしまう。人は生き続ける。恨みや自己憐憫を捨てて立ち上がり、前に進まなくてはいけないんだ。君が何度も、何度もそうしていたように。

君から学んだ全ての教訓を、私は私の人生に活かして行くよ。

タイラー、ありがとう。

いつまでも愛しているよ、タイラー。

 

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