2011年6月15日

ステュー・ウィルソン

ステュー・ウィルソン

ステュー・ウィルソン氏は2011年7月1日に開催されるタイラー基金のシャインオン! ラグビーワールドカップ チャリティーディナー&オークションでスピーチを行うセレブリティゲストの1人です。オールブラックス公式サイトからのプロフィールです。

1954年にニュージーランド・ゴアで生まれ、マスタートンで学生生活を送ったステュー・ウィルソンは、183cm、86kgというパワフルな体格で、センター/ウィングでプレー。1973年にオールドボーイズに入団し、同クラブの人気選手となりました。1973年に煙草をやめてからは彼のラグビー選手としてのキャリアは劇的に変わりました。Doug Catley によりシニアのキャプテンに抜擢され、その後ニュージーランドコルツやウェリントン、ノースアイランド、そして1976年のオールブラックス・アルゼンチン遠征にも選抜されました。

代表に召集されることが増え、オールドボーイズで彼のプレーを見られる機会が減ってしまったものの、ステューは時間のある限りオールドボーイズクラブに立ち寄り、若手選手を励ましました。1983年のダニディン ライオンズのテストマッチの翌日、オールドボーイズはクラブ初となるジュビリーカップマッチを控えていました。ステュー は、オフィシャルテストディナーを欠席し、困難でしたが航空券を変更し、オールドボーイズとしてプレイするために地元へ飛んで帰ったのです。そして彼はトライを決め、オールドボーイズの対アスレチック戦勝利に貢献したのです。

輝かしいラグビーキャリアの中で、オールブラックスの選手として50以上のトライをあげましたが、そのうちの2回はブラックのユニフォームを着て初めて出場した試合でのことでした。彼のテストマッチでの19トライという記録は、数年間オールブラックスの記録として破られることがありませんでした。

ニュージーランドのラグビー史上でも、100以上のすばらしいトライをあげたのは、彼を含めて12人しかいません。104という記録の多くが手に汗握る素晴らしいトライでした。ステューの記録達成の背景には、コーチ陣がボールがめったにウィングに来ない10人制ラグビーに集中したということがあります。いくつかのマッチにおいては、ステューが4回中3回しかボールを持たなかったにも関わらず、結果的にトライに結びついたのです。

ニュージーランドコルツにいた彼は、1975年にウェリントンBに選ばれました。そしてたった2試合プレイした後から、その後9年間に渡ってAサイド代表の正選手として不動の地位を築きました。ウェリントンでの初のフルシーズン中、彼は15試合で16トライを決めています。ウェリントンとしてファーストクラス試合に89回出場し、1981年にはキャプテンも務め、対スコットランド戦でチームを勝利に導いています。

ユーモアのセンスと気さくな態度で知られる彼は、プレイ中も変わらず、ラグビー界の頂点でトライを決めるということすら、実際よりもはるかに簡単にやってのけるのです。彼が観客を湧かせた数々のパフォーマンスの一つに、1983年にエデンパークで開催されたブリティッシュアイルズ戦でのハットトリックがあります。さらに彼は同じ場所で1981年にもスコットランドを相手にハットトリックを決めています。

ステューはオールブラックスのユニフォームを85回着用し、テストマッチに34回出場しています。海外ツアーは全部で9回参加。1978年のグランドスラムチームとして参加した際には、ホームユニオンの4国すべてに勝利しています。1983年のイギリス・スコットランド遠征では、8試合すべてにおいてキャプテンを務めました。

ステュー・ウィルソン は、試合で13の国々を訪問し、多くの海外の選手と友情を築いてきました。そんな彼にとっては、最後の公式試合となった Al Keown Memorial Trust のためのチャリティ試合で、ウェリントンでプレイするために、International Invitation XV を募るのは難しいことではありませんでした。

1984年、選手としての絶頂期に彼はラグビー界から引退しました。この引退の引き金となったのは、オールブラックスで共にプレイしたバーニー・フレイザーと共同執筆した書籍にまつわる問題でした。国際ラグビーボード(IRB)の規則によって、選手は書籍の印税を受け取ってはいけないことになっているのです。これまでにも、多くの選手が、様々な言い訳を使って対策を講じてきました。

しかし、ステュー・ウィルソンは一切言い訳をしませんでした。クラブの経営委員会は彼を全面的に弁護し、ラグビー協会に規則変更を迫り続けました。当時のクラブ会長は公式声明の中で、もしステューの本がラグビー試合のツアー中に訪れた素晴らしいゴルフコースについて書かれたものだったならば、IRBの見解はどういったものになっていただろう、と問いかけました。この早すぎる引退は、WCOB、そしてニュージーランドラグビー界にとって多大なる損失でした。

現在ステューは不動産業を営む一方、ラジオやテレビでラグビーのコメンテーターとしても活躍しています。