2006年8月1日

横浜カントリー&アスレチッククラブ(YCAC)

横浜カントリー&アスレチッククラブ(YCAC)はそのプレイングコンディションやフレンドリーで熱心なクリケッターたちから、日本で一番のクリケット競技場であることは間違いありません。クラブでのこのスポーツの起源はクラブが横浜クリケットクラブとして知られていた135年も前に遡ります。YCACは自信を持って“日本のクリケットのホーム”であると言えるでしょう!

この秋、タイラー基金はプロスポーツ界の伝説である10人のクリケット及びラグビーの選手を東京で開かれるスポーツ・エクストラバガンザ2006でホストします。このイベントには3つの募金集めのイベント、ガラディナーセレブリティゴルフデーセレブリティクリケットマッチという楽しいイベントが盛りだくさんの週末も含まれます。

10月1日にYCACがホストするセレブリティクリケットマッチを前に、マイク・ガルブレイスは日本でのこのスポーツの歴史について話をしてくださいました。


日本でのクリケットの初期:J.P.モリソン&横浜クリケットクラブ(YCAC)


By マイク・ガルブレイス(この記事の執筆にあたり、ジョン・スギヤマ氏の助言を得ています)

「初期の頃の横浜での生活はただただ楽しいものでした。どんなスポーツも身近だったのです。」クラブは100年近くもの間、横浜カントリー&アスレチッククラブ(YCAC)として知られ、クラブの創始者であるクリケットファンたちは1890年代、まさにその言葉通り、人々の記憶に刻まれ、これまでの140 年間の間も守り続けられてきたこののどかなスポーツ環境を作り上げるのに大変な貢献を果たしました。

South Africa in 1865 The 1st battalion of 10th’s cricket team In South Africa in 1865.

しかし1867年1月、22才のスコットランド人、ジェームス・ペンダー・モリソンが上海からのP&O蒸気船、エイデンから降り立ったときの横浜はとても違っていました。「小さな移住地は荒廃の現場となりました。実質的に様々なお店を含む、町全体が破壊されたのです。そして多くの住民が、自分たちが立ち向かったもの以外はすべて失ってしまったのです。」と彼は振り返りました。彼は1866年の大火災から2ヶ月も経たないうちにこの地に降り立ったのです。

モリソンは、クリケットは彼がやってくる前、ブラフのキャンプでの練兵場でプレーされていたと言っていますが、YCACと日本のクリケットの歴史は、記録に残っている中では、江戸時代にまで遡ります。「この地は草の根も育たないような場所だったにも関わらず、クリケットは大流行していた私の時代よりも前にプレーされていたと聞いています。」と彼は書いています。

このようなことから1868年、上海でお茶の検査官として働いており、現地でクリケットをプレーしていたモリソンは、同じくウォルシュ・ホール商会でお茶の鑑定人として働いており、クリケットに夢中になっていたアーネスト・プライスは、彼らが熱狂していたスポーツをプレーするために、現在の横浜公園(現在の横浜スタジアムに隣接する公園)、当時は‘新しい湿地’として知られていた土地の真ん中を開拓、60平米の‘芝生を植える’ために役所に許可を得ようと試みました。

それはまさしく先駆けであり、また日本に住む外国人にとって危険な時代でもありました。日本では、いわゆる革新主義者たちが250年以上に渡って続いていた徳川幕府による統治を終わりにさせようと、まさに市民戦争(1968~70年 戊辰戦争)が起きようとしていました。結果は予想不可能であり、映画『ラスト・サムライ』に描かれたこの歴史的な出来事がちょうど起ころうとしていたのです。

それから遡ること数年前の横浜は小さく静かな漁村でした。そして1853年、‘黒船’に乗って海軍対将マシュー・ペリーが来航し、1854年、幕府はしぶしぶ開国、海外との取引を始めました。5箇所の外国人村落が作られ、1859年から治外法権が定められました。横浜はついに江戸に近い外国人向けの居住地として定められ、外国人貿易業者や外交官たちが居住を始めました。

日本人はそれを歓迎しておらず、1863年、天皇は外国人の締め出しを命じました。結果としてそれから数年の間、外国人にとって安全な場所はなくなり、多くの人々が殺されました。最も有名な事件は、薩摩藩の大名が横浜から川崎大師へと移動する際に馬から下りなかったという理由でチャールズ・レノックス・リチャードソンが殺された事件です。結果、1863年、アングロ=サツマ戦争が勃発し、鹿児島は砲撃されました。また別に大名とのトラブルにより、下関にも砲撃がなされました。これら全ての攻撃は、海軍の軍艦や陸軍、商人や航海船、蒸気船などがたくさん停泊していた横浜を拠点に行われました。

リチャードソンの事件により、横浜を拠点としていたイギリス及びフランスの軍が大きな駐屯地を築き上げ、それにより、クリケットやその他の現代的なスポーツが日本に入り始めました。先にモリソンが述べていたキャンプというのはイギリス軍が駐屯していた場所で、イギリス軍の士官たちの多くは熱心なクリケッターでした。

モリソンは自宅のダイニングで開かれた会合で正式にクリケットチームの結成を宣言し、こうして横浜クリケットクラブが出来上がりました。モリソンが代表となり、プライスは秘書、マーレイは会計係、バターフィールド&スワイヤーのフレイザー、ハミルトン、そしてJ.H.スコットはエグゼクティブの称号を得ました。

YCCにはクラブハウスこそありませんでしたが、ピッチとアウトフィールドには十分なスペースを持っていました。プレーヤーたちは彼らが住んでいた‘居住地’からグラウンドまで自身のキットを運びました。またそこには‘バー’もあり、試合が終わると、お気に入りだった冷たいクラレットや水を大量に飲んでいました。

YCCの初期、最も真剣な試合とは、モリソンが言うところのレッドコートとの試合でした。 「1870年~1871年は主にクリケットに夢中になっていた第10隊の士官たちを相手に何試合か良い試合をしました。」と彼は綴っています。フットの第 10隊は1868年4月に横浜に上陸、第10隊の第1軍隊の士官たちは長年クリケットチームを存続しました。

10th regiment on parade at parade ground at the Camp which cricket was played first.

芝生だったにも関らず、ウィケットは特に1866年、初めての港間戦として行われた上海クリケットクラブとのゲームで、1日半のプレーで450のランをした香港クリケットチームと比べると、打者にとって良い状態ではありませんでした。そのゲームではプライスの兄弟がプレーしましたが、”大変残念なことに” モリソンはプレーしませんでした。(彼は翌年上海相手にプレーし、リベンジを果たしました。)

ゲームは2日以上続く2イニング制でした。 今日、平日に一生懸命働いている人々からすると、これらの試合が平日に行われたということは非常に驚きでしょう。「そもそもテレグラムなんてありませんでしたし、1ヶ月にたった2通の郵便しか来ませんでした。」とモリソンは40年後に綴っています。そうです!彼らは一生懸命、時には郵便船に間に合わせるために夜遅くまで働きましたが、ひとたびそれが終わると、次の郵便が到着するまでリラックスし、人生を謳歌することが出来たのです。

1871年に行われたYCC対第9隊の2試合に関しては、詳細な試合のレポートとスコアカードが残されています。スコアの推移を見ると、ゲーム運びはそう簡単ではなかったようで、ボウラーはたくさんのワイドボールを投げています。最初の試合のファーストイニングの13オーバーの後、YCCはたった16ランしか出来ず、しかもそのうちの10がワイドボールからで、そのうち少なくとも1つはレッグ・バイでした!モリソンは多くのウィケットを取る良いオープニングボウラーのようでした。彼は第9隊のボウラーほどではありませんでしたが、むしろ多くのワイドボールを投げました。バッティングナンバーは4番もしくは 5番で、友人のフレイザーのようなビッグヒッターではありませんでしたが、間違いなく手強い選手でした。

湿地 のグラウンドはクリケットをプレーするために使われただけでなく、ラグビーを含むあらゆるタイプのスポーツにも利用されました。当時の横浜には多くのスポーツクラブがあり、多くが湿地のグラウンドを使っていました。

Panorama of Swamp ground 1875

モリソンとYCCにとっては残念なことに、第10フットの第1軍隊は1871年、香港へと経つために横浜を離れ、1874年、最後の軍が引き上げるまで、明治天皇の下で政治情勢が安定した日本の中で、駐屯隊は縮小の一歩を辿りました。

YCCやその他のスポーツ倶楽部は1871年後期、横浜で新しいスポーツの局面を迎えるまでは繁栄を続けていました。 新しく結成され、今日まで存続している神戸レガッタ&アスレチッククラブ(KRAC)がボートやアスレチック競技で横浜に挑戦、その年の8月、正式に船で到着しました。当時神戸の人口はずっと少ないものでしたが、予想に反しボートで良い結果を出し、3人のランナーから成るチームは主なアスレチックの賞を総なめにし、横浜の男性居住者があまり参加していなかったことから、地域コミュニティにはショックや怒りが広がりさえしました。アスレチックにおけるモリソンの最も顕著なパフォーマンスとは勝つことでした。

この毎年恒例の試合は後に様々なスポーツでも見られるようになりました。日本で最も続いているレギュラースポーツの試合は 現YCACとKRACであるYCCと神戸クリケットクラブ(KCC)のものです。 今日でもなお、これら2つのクラブは港間の試合を1年のスポーツにおけるハイライトと見なしています。モリソンがピッチに選んだ土地、ファイナルに向けてのウォームアップ試合が第113回目のサッカーインターポートであった横浜スタジアムで行われた2002年のサッカーワールドカップはグラウンドにとって、そしてインターポートにとってのトリビュートでした。

一方、1872年の新橋横浜間の鉄道開通により、東京からのチームとの試合も容易となりました。 代表的な選手には、三菱のマクミランや国鉄のトレバースィック、英国大使館のレイヤードなどがいました。

横浜は今や栄え、たくさんの会社がオフィスを構え、町はあっという間に香港や上海、シンガポールと並ぶ遠東を代表する港町となりました。 ジャーディンズやマシューソン&Co.、ギブリビングストン&Co.といった貿易会社やモーリャン・ヘイマン&Co.といった有名なお茶の会社は多くの素晴らしいクリケッターを雇ったため、良い選手に困るようなことはありませんでした。「ビジネスは上々、何も心配することはなく、17世紀初期、人生は喜ばしいものでした。」とモリソンは綴っています。

Officers of the 1st battalion of the 9th in Yokohama 1871

しかしながら、1870年中期、クラブは初めての大きな危機に直面しました。地方政府がクラブが使っていた土地を開発に充てることを決めたのです。そこでクリケットファンたちは現在の横浜公園にあたる土地のど真ん中に120平米のより大きな土地を取得しました。土地には芝生が張られ、フェンスが建てられ、 1875年には1階建てのクラブハウスが建てられました。また、ローカルの日本人であるC.ヨシワラ氏をグランドマン兼マネージャーとして雇いました。ヨシワラさんはその後40年に渡ってクラブで働きました。最初のグラウンドはその他の土地と共に売りに出されましたが、モリソン氏自身が購入しました。彼はその土地に茶の再製情を建設しましたが、彼のビジネスの利益はお茶だけに限られませんでした。彼は後にアルフレッド・ノーベルの日本でのエージェントとなり、初めてのダイナマイト輸入者となりました。

1900年、横浜クラブは拡大し、新たにランニングトラックが造られました。モリソンとダフの監視下、2階建てのクラブハウスが建てられました。ところが、この建物はその後すぐに消失し、再建設されました。同じ頃、クラブの名前は横浜クリケット&アスレチッククラブ(YCAC)に変更されました。

クラブの成長と共に、ほとんどの人が永続的に土地を守ることが出来ると思っていました。 しかし1910年頃、YCACは2回目の大きな危機に直面しました。昔のリース契約により、日本の役所は‘期限通知’というだけでリース契約を解除することが出来たため、実際、そのようなことが起こってしまったのです。クラブは外国の善意ということで全施設を明け渡すこととなったのです。

S・アイザックの勇ましい努力の結果、クラブは現在ある場所に土地を得ることが出来ました。それと同時に、1912年6月26日、クラブを日本の法律の下、正式に登録をするために、古いクラブは解散となり、新しいクラブが同時に結成されました。熟慮の末、名前に含まれていた‘クリケット’という言葉が ‘カントリー’に変更されました。クラブは7月4日、正式に登録され、6日後に土地の購入が最終決定されました。

土地を水平にし、フェンスや今日も残るテニスコート、そして小屋を建てるために多くの作業がなされました。これらの開発はその年のジェネラルミーティングで報告され、日本中からだけでなく、海外も含む長い出資リストとなりました。1912年の正式な会員数はわかっていませんが、291名前後だったと思われます。翌年、320名へと増えましたが、第一次世界大戦により199名にまで落ち込みました。

当時、会員たちはストリートカーでクラブへと通い、夏の間は丘を歩いて下り、当時‘オールド・ミシシッピ湾’の一部だったミカド湾のきれいな水に遣ることが日常となっていました。残念ながら今やビーチはなくなり、現在クラブは整備された土地に建てられた石油の精製所を臨んでいます。

またクラブは上ったり下がったりを繰り返してきました。1923年の大地震や第二次世界大戦などです。しかしスポーツ精神と伝統は常に守られてきました。モリソン自身も1923年の地震では生き残り、1931年にその生涯を閉じるまで、横浜に住み続けました。

それら初期の頃には日本人もクリケットをプレーしていたということは特筆すべきでしょう。西洋化が進むにつれて、政府は男性はスポーツをすべきだと宣言しました。ボートやサッカー、テニス、ゴルフ、アスレチックを含む、横浜や神戸で広まったその他のスポーツと共に、クリケットは明治時代、カリキュラムの一貫として、開成といった有名な高校で教えられ、プレーされていました。しかし大学や学校は徐々に野球に夢中となり、クリケットは残念ながら1970年代から1980年代にかけて、日本人の間ではプレーされなくなってしまいました。

YCACは依然として日本ではユニークな存在で、会員やスポーツマンから楽しみ、愛されています。そのグラウンドや施設は未だ国中の他のスポーツクラブがうらやむ存在です。しかしそこで今日プレーしているクリケッターやその他のスポーツマンたちは偉大なるジェームス・ペンダー・モリソンや彼の仲間たちがビジョンや英知、パイオニア精神、そして何よりもクリケットへの情熱にかけて負った負債についてふと立ち止まって考えることはありません。


YCACに関してより詳しくはwww.ycac.or.jpをご覧ください。