2011年7月1日に開催されるタイラー基金のイベント、 シャイン・オン!ラグビー ワールドカップ チャリティーディナー&オークションのセレブリティ ゲストのポール・スティーヴン・ウォレス氏はアイルランド代表、ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズでタイトヘッド・プロップを務めたラグビープレーヤーで、「世界一のタイトヘッド・プロップ」と称されました。現在はスカイ・スポーツのラグビー解説、デイリー・メール、ラグビー・ワールド・マガジン、トゥデイFMのザ・ラスト・ワードの仕事をされています。
ラグビー選手としての経歴
ポールは、UCC、マンスター、ブラックロック大学RFCでプレーし、プロ選手となりました。1996年から2001年まではサラセンズでプレーし、2001年にレインスターに移籍しました。アイルランド代表、ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズの一員として数々の国際試合に出場しました。ジュニア時代にアイルランド代表入り、本格的な国際デビューは兄のリチャードとともに出場した、1995年ブルームフォンテインでのラグビー・ワールドカップの日本戦でした。1995年から2002年にかけてアイルランド代表キャップ46試合を達成。アイルランド代表チームでの最後の試合は、2002年9月ランズダウン・ロードでのワールドカップ予選、対ジョージア戦でした。
ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ
ラグビーのホームユニオン(イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランド)の代表選手から選ばれ構成されたドリームチームであり、英国・アイルランドのラグビー選手にとってライオンズに選ばれることは非常に名誉なこととされます。
ポール・ウォレスがブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズに選ばれたのは、1997年の南アフリカ遠征でした。ピーター・クロヘシーの交替要員として選ばれたのです。遠征での全3試合のテストマッチにフル出場した選手はわずか5人でしたが、ポールはその1人となりました。ポールはオス・デュランドとスクラムで対決、シリーズでの勝利に非常に大きく貢献し、後にキャプテンのマーティン・ジョンソンは「シリーズにおける私のプレーヤー」と称し、ツアーマネージャーのフラン・コットンもまた、ポールをライオンズのスクラムの基盤と見なしました。
引退
2001年1月にサラセンズで対アルスター戦プレー中に、ひどく足首をいため、そこから復帰したものの合併症を発症し、レンスターでケルティックリーグを勝ち取った後、2003年12月に引退しました。
代表歴
- アイルランド・スクールズ代表
- アイルランドU21代表
- アイルランド学生代表
- アイルランド・デベロップメント代表
- アイルランドA代表
- アイルランド代表
- ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ
引退後
2005年、彼はハンズオフ・インベストメント・ファンドという名称の、プロの男女スポーツ選手を対象とした不動産投資信託基金を起こしました。
現在はスカイ・スポーツの専門解説者を務めており、ラグビー・ユニオンの番組で専門家としての意見と分析を述べています。また、国際ラグビー評議会(IRB)の年間最優秀選手賞のパネルメンバーでもあります。
メディアでの仕事に加え、ポールは商業用不動産の国際債の会社、ビルクロフト・プロパティ・ファイナンス(アイルランド)の重役でもあります。ジョーンズ・ラングラサール社という国際的な不動産売買を扱っている不動産会社にも勤務していました。